日本参戦2

大輔は、大教室に足を踏み入れて驚いた。朝一番の授業は人気がない。夜更かしの多い学生にとって朝九時に来るのは苦痛の極みだからだ。

 今日は「日米外交論」だが驚くべきことに八割方埋まっている。これはどうしたことか?授業開始までまだ30分もある。それに担当の山田教授は遅刻癖があるのだ。

 一番後方の席でテキストを取り出してぺらぺらめくった。文字が頭に入ってこない。今朝のニュースを聞いた時のショックがまだ残っている。ぼおっと見渡すと、仲のいい相田聡介と目が合った。彼らは幼稚園から大学まで共に過ごし、実の兄弟でもこうはいかないといえるほど仲が良かった。その彼がこちらに来た。大輔はからかうような調子で言う。

 「おやあ、誰かと思ったら。こんな早い授業に来るなんて、雪でも降るんじゃないか」「馬鹿言え、お前こそ、右の首筋にキスマークなんて付けやがって。」

 大輔は慌てて首筋を右手で覆った。聡介は声を殺して笑いながら、嘘だよ、といった。大輔はこの野郎といい、聡介のあごを殴る真似をした。

 「おっと、引っかかるほうが悪い。持てる奴は嫌だねえ」

 大輔は確かに女にもてた。自分でもその原因はわからない。身長は175センチで、やせ型だが高校時代にサッカーで鍛えた体は腹筋がくっきりと割れている。自分でも気に入っているのは足だ。速筋と遅筋の入り混じった筋肉は優美であると思う。顔は決してハンサムとはいいがたい。母親譲りの切れ長の目はいいが、父親から受け継いだやや尖った鼻は貴族的すぎる。そして薄い唇は酷薄な印象を女に与える。相対的には悪くないのだが自分は気に入っていない。

 ブラッド・ピットに生まれたかったな、と大輔は彼の映画を見るたびにそう思う。持てることは持てるのだが町で声をかけてくるのは、たいてい、水商売の女たちだ。彼女たちを疎ましく思うことはないが、セックスしたいのが見え見えで彼はいっぺんに覚めてしまい、応じたことは一度もない。

 真理子は、逆に彼のほうから町で声をかけたのだ。友人と二人で歩いていた彼女は、最初、胡乱な目を彼に向けていたが大輔が大学名を言うと眼を輝かせ始め、連れの女の子にいったのだ。

「じゃあ、私この人にナンパされたから行くわ。またメール入れるから」

 大輔と真理子はその晩、遅くまで新宿のゴールデン街のバーで飲み、終電に遅れた真理子は、大輔の住む早稲田のアパートに歩いて行き、こう宣ったのだ。

「これはバーで払ってもらった飲み代のお返し」といって大輔と寝たのである。大輔は、彼女のルックスを気に入っていた。変にべたつかない性格もいい。その癖、一日おきに彼のアパートへやって来ては、手料理を作ったりする。セックスも情熱的で手料理とのアンバランスが大輔の理解に苦しむところだ。ただ、欠点が一つだけある。それは、社会や政治に関心がないことだ。

 彼女の興味は、ドストエフスキーシェイクスピア、ヘミングウエイ、魯迅に捧げられているのである。それでも、共通の友人がいたりして退屈はしなかった。ふたりで、喫茶店に行っても、お互いにスマホばかり見ていることもない。そして、大輔は今日の社会的あるいは政治的関心事を、メールで送り、真理子は感想を述べるまでに成長した。

 椅子の背に持たれかかった聡介が大輔に向かっていう。

 「今朝のニュースを見たか」「ああ」

「ヤバいことになったな。こいつは日本の安全保障を揺るがせることにもなりかねない、そう思うだろ」「確かに」「嫌に冷静だな」「だって、まだ侵攻しただけで、戦争に発展したわけじゃない」「おまえ馬鹿か?」「ロシアがウクライナに侵攻したのを忘れたわけじゃないだろう」

 2022年2月24日未明、ロシア軍はウクライナに侵攻した。それは全面戦争へと進み、泥沼と化して今も継続している。

 大輔はいった「忘れちゃいないさ。しかし、そして、台湾の後ろには、日本もアメリカもいる。習近平はそれを知っていると思う」「それじゃ、なぜ台湾侵攻なんて愚行を犯したんだ」「それは簡単さ。日本は専守防衛、つまり憲法七条第二項に縛られている。友人を助けることもできないんだ」「じゃあアメリカは?」「台湾と国交がない。ない以上、参戦する理由がない。アメリカ国民もウクライナ戦争に辟易しているだろう。国家予算の多くをウクライナ支援に取られている。たとえ、国交があって、安全保障条約を結んでいても、そう簡単にアメリカ軍の出動とはならないんじゃないか」