尊厳死について

4月売りの文藝春秋で、東京大学学情報学部教授、佐倉統教授が、「あなたはどう死にたいですか」という一文を寄稿している。自殺幇助によりスイスで亡くなった。フランスの著名な映画監督、ジャン・リュック・ゴダールの顔写真も冒頭に掲載されている。ドゴールといえば、ジャン・ポール・ベルモンド主演の「勝手にしやがれ」で有名になった。ゴダールは「勝手にしやがれ」で世界中に名を馳せ、ヌーベルバーグ(新運動の波)の旗手となった著名な人物だ。ヌーベルバーグは日本にも押し寄せ、atg(アートシアターギルド)と呼ばれる映画集団を生み出した。大島渚、だけでなく、あの黒澤明さえその波から逃げられなかったように思われる。黒澤の「どですかでん」などはその典型だと私は見た。

 そのゴダール尊厳死を受けたと知って、なんと見事な死にざまだったことかと思った。この一か月、入院していた私はゴダールの死を知らなかった。知った今、深い感銘に襲われる。佐倉氏の話に戻ろう。

 氏によれば、尊厳死を認めている国は、オランダ、ルクセンブルグ、コロンビア、カナダ、オーストラリア、スペイン、ニュージーランドポルトガルなどがあるという。スイスも例外ではないのだろう。ゴダールの故郷、フランスでは、彼の死をきっかけに安楽死是非を議論する市民会議が発足した。

 隣国の韓国でさえ、2018年、死期が迫る患者の心肺蘇生、人工呼吸器の装着、抗がん剤の投与などの中止を認める延命医療決定法が法制化され、2023年6月名で二、29万人がこの制度下で尊厳死している

 翻って日本ではどうか。「いつまでも死ねない」のが実情だ、と氏は書く。病院に行くだけで、治療しなければいけないという、いわばシステムに組み込まれてしまうのだ。患者はこのシステムに抗うことは、なかなか難しい。自分の死を選ぶことは困難だ。これは、死は誰にも必ず訪れるという大前提を忘れた日本の医療に根源がある。医師の仕事は人が最後の一歩を踏み出そうとしているときに、手を出してはいけないという「ヒポクラスの誓い」に反する。 

 ところが、この尊厳死があまり日本では議論にならない。

 なぜか、と私は考える。それは、尊厳死は家族が望んでいないからだ。いつまでも、この世に留まって欲しい、これはいわば人情である。だが、それは言い換えれば家族のエゴではないか?当人は死にたがっているのに、それを無視するのはエゴ以外の何物でもないという気がする。

 私は、この一か月間、精神科の閉鎖病棟に入院していた。そこで、認知症の年寄りも多く目にした。今回の、尊厳死について考えた時、惚けるのだけは避けたいと考える。それは、惚けてしまえば、尊厳死を望むことすら表明できなくならだ。