双極性の狂気6

クリスマスパーティーは例年になく盛り上がった。私は芝居の演出が上手くいったことに満足していた(台本もセリフもないのだから芝居といえるのだろうかという疑問もあったが)。私は何の芝居の予定もなかったが、台本を作ろうと考えていた。内容は刑事と容疑者のやり取り。これも一幕芝居にしようと思った。笑いを取ろうとするコントは望まなかったので、あくまで芝居にこだわった。そんな折、通所者の一人の競馬好きから有馬記念をやろうよ、と誘われた。そういえば、ずいぶん長く馬からは遠ざかっている。しかし、そんなに多くの金をつぎ込める種はない。せいぜいが六千円ぐらいだ。でもなぜか当たるような予感がしていた。これが躁状態の前兆だとはまったく考えなかった。有馬記念当日、彼と新宿の場外で待ち合わせ有馬の出走が迫るテレビ画面を群集の中で見つめた。

 徐々に緊張が高まってくる。いよいよ発送したときは心臓が飛び出そうなほどドキドキした。第四コーナーを回った時、目指す馬はまだ馬群の中にいた。それが後二ハロン(400メーター)という所でするすると伸びてきた。心の中で「行けー」と叫びながらゴール板を見つめた。見事その馬は優勝したが、二着の馬は見ていない。連勝複式で買っていたので行方が気になった。傍らにいた若い男に「二着は?」と聞くと、彼はさも悔しそうに馬名を教えてくれた。見事的中していたのである。そのとき、どっと汗が噴き出して頭の中でカチッとスイッチが入ったような気がした。しかし、それが躁状態に入るスイッチであるとは認識していなかった。「いくらぐらいつくのかな」と左隣の中年の男に聞くと、直前のオッズは四十倍を越えていたという。二千円ずつの三点買いだから八万を上回ったのである。

 だが、その翌日、街で友達となったある人物に遭遇したのが運の尽きだった。私は彼に連れられてオート場や競艇場に行った。それらはいわば未踏の地で当たるはずもない。馬で勝った分を溶かし、さらに、生活保護費まで手をつけた。これはいよいよヤバイとなった暮れの十二月三十日、私は新宿の防犯用品の店で警察手帳のレプリカを二万円で手に入れた。不穏な考えに支配されたのである。手元には千五百円ほどしかない。私は山手線に乗って新宿駅に向かった。座席に座っていると目の前に外国人の家族連れが立った。日本に住んでいるのだろうか。それとも旅行?私は彼らに話しかけた。英語で。彼らはカナダ人で休暇を楽しみにしに日本を訪れたのだという。「カナダのどこ?」と聞くと、「ケベック州」「ケベックはフランス語ではないのか」「私たちのように英語を公用語にする人たちもいるのだ」その一家は、今の私にとってはあまりにまぶしすぎた。このような幸福な人々もいる、そのことが私を打ちのめした。

 私は新宿駅を降りると歌舞伎町に向かった。そうして風林会館の一階にある喫茶店の中に入った。ここが暴力団のたまり場と知っての行為だった。私はカウンターにいた中年の男に警察のマークが刻印された手帳を見せた。男は能面のように表情を変えない。「どんな御用で」「わかっているだろう。責任者に会いたい」「責任者とは?」「知らばっくれるな。マルビーに会いたいんだよ」「私も構成員ですが」「そうか、それなら話は早い。ちょっと金を借りたいんだ」男は私に席に着くようにいい。私はコーヒーを注文した。男はカウンターのところで誰かに電話し、戻ってくるとこう言った。「警察に知らせたからな」やくざ者が警察に助けを求めるなんて聞いたことがない。私はあわてて立ち上がると千円札をテーブルに投げ捨てるように置き、店を出てレプリカを投げ捨てて歩き出した。十メーターも行くと向こうから二人の警察官の姿が見えた。これは身体きまわったと思った私は二人に手を挙げた。

 「やったのは私です」というと、一人が私の身体をざっと調べ「「警察手帳は」「投げ捨てた」こうして、私は歌舞伎町の交番に連行され話を聞かれた。レプリカはあとで聞かされたが回収されたという。私はパトカーに乗せられ新宿警察に連れていかれた。休憩室のようなロビーに座らされた。やって来たのは、痩せた背の高い男とちょっと見のいい女の刑事の二人組。そこで、いろいろと世間話をしたが内容まではよく覚えていない。ただ女刑事が「今日は何日かわかってます?大晦日ですよ。お父さん勘弁してくださいよ」

 23時を回ったころ、男の刑事がそこにあった自販機で、どん兵衛の天ぷらそばを買ってくれた。こんなところで年越しそばを食おうとは思わなかった。時間がゆっくりと過ぎ、午前零時を過ぎた時、離れていた女が戻ってきて、私の目の前にやり慣れたように一枚の紙を見せた。そこには(逮捕状)と書かれていた!目の前が真っ暗になるよう錯覚を覚え、何故か別れた子供たちの顔が浮かんだ。容疑は詐欺未遂らしい。私はその場で手錠をかけられ、青い腰縄を巻かれた。横顔と正面の写真撮影、指紋とdnaの採取を終え、官衣に着替えさせられて鉄格子の嵌まった一人部屋に放り込まれたのである。

 数日して五人用の部屋に移された。その部屋にいたのは中年の男(容疑は覚せい剤所持、使用)、三十代の髪の長い男は(大麻所持、使用)、これも三十代だが後に分かったのはインターハイの陸上経験もある男で、一橋大を出て一流企業に勤めたが数億円の横領をやったという。自慢げに新聞にも出たと宣った。70代の貧相な老人は傷害容疑。新宿駅西口公園で知り合いの頭をバールで殴った。この男は始終、唇の皮をむき、食事をほとんどとらず「担当さーん、私は人を殺してしまいました。許してくださーい」というのが口癖だった。どうやらかなり惚けているらしい。後で判明したのは殺人など犯しておらず、相手のけがも大したことはなかったらしい。最後に紹介するのは、何と明治大学の私の後輩でまだ20代だが、女に睡眠薬を飲ませ三十万の金を奪ったという鬼畜のような若者だった。留置所での生活がどのようなものかは、亀山玄一郎のペンネームでキンドル出版から出している「私の部屋」に詳しく描いたからここでは割愛する。私は取り調べを受けたが素直に応じたのでそう何回も呼ばれることはなかった。東京検察庁の検察官の取り調べも数回だった。三週間ほどで私は留置所から裁判を待つ東京拘置所に移された。官選弁護士にもあらゆることは伝えたので心配はいらなかった。ただ、どのような判決が下るのか、私は判断できなかった。拘置所に移るとき、覚せい剤で捕まっていた男が「なぜこんなに早くこいつは移されるんだ」と担当の看守に文句をいった。看守は「お前が素直に吐かないからだ」と怒鳴った。裁判の数日前、私は弁護士に、自分は双極性障害で医者にもかかっていたが、当時は薬が切れていて躁状態だったと告げた。彼はそれを裁判の中でいわなくてもいいといった。

 そうして東京地方裁判所で開かれた法廷。私は結構冷静だった。検事が調書を読み上げ、弁護士はそこで初めて私が双極性障害の持ち主であることを明らかにした。今になってみれば、弁護士がそのことを検事に伝えていたのかもしれない。私は弁護士から裁判官の顔をまっすぐ見て話すようにといわれたが、それができたかどうかは自信がない。そして判決。判決文を読み上げる裁判官の目をじっと見つめた。その言葉はわかるのだが、肝心の刑罰の内容を聞き逃した。最後に裁判官はこういった「懲役一年六月、執行猶予三年。これからはキチンと医者に通って薬も忘れないようにしてください」

 私は膝の力が抜けるような気がした。心底ほっとしたといっていい。そのまま控室に入るようにいわれた。連れて行ってくれた看守は物腰が柔らかく丁寧だった。控室には折詰の弁当があった。留置所や拘置所の飯とは比べようもないほど旨いはずだがほとんど手を着けられなかった。私は東京拘置所に戻され手荷物を返還してもらった。看守は交通費はあるかと問い、それぐらいなら、と返すと拘置所の門まで見送ってくれたそこで、私はふと気がついた。今日が二月二十六日であることを。そうあの陸軍の一部が天皇を擁立して起こそうとして起こしたクーデター二二六事件のその日であることを思い出したのだった。