双極性障害の狂気2

エアーカーゴ便が取れた。まずはホッと一息ついた。その数日後、自転車で池袋を走っているとtatooの看板が。そこで左肩に龍の刺青を入れた。龍はその手に玉を握り、その中に梵字大日如来が入っている。大日如来は私の守り本尊だ。これは、ハイチの治安が悪いことを知っていたので、たとえ行方不明の遺体となっても身元が判明すると判断したのだ。刺青師は入れた絵を写真に残す。私の当時仲良くしていた刑事にも刺青を見せ写真に撮ってもらった。もう何も思い残すことはない。そう思った途端、この世の名残に、どこかへ遊びに行こうと思い立った。私は瞬間そう判断して行き慣れたグアムへ行くことに決め、エイチ・アイ・エスで航空チケットとホテルの予約を取った。期間は五日間。グアムでは陽を浴び、たらふくステーキを食い、夜には浜辺でマルガリータを飲み、葉巻をふかした。この世の見納めかと思ったら、キューバ産の葉巻、コイーバのシグロ4がひどく旨かった。

 日本に帰って本格的に準備を始めた。海外取材の経験のない私は、知り合いの編集者に聞いてみた。すると彼は日本赤十字社にコンタクトを取るのも一つの手だと教えてくれた。私はさっそく広報に電話をしてアポを取った。対応したのは広報の男女二人でハイチの取材について問うと「それは、渡りに船です。私どもも広報体制の強化を検討していたところだったのです」その取材が上手く言っていたら、私は敬宮愛子様の先輩となっていたかもしれない。ところがそう簡単に問屋が卸さなかった。

 ケチのつき始めは、借りたスーツケースの一つ。いくら閉めてもしばらくすると留め金が開いてしまうのだ。私はそちらのケースに衣類を入れた。そしてなぜかはわからないが50万で買ったイタリア製のシルクのスーツも収めた。そのメーカーはアメリカの有名な俳優ジャック・ニコルソン御用達だった。週刊現代の記者時代に、ちょっとかしこまった席での取材に着用していたものだ。

 私はその二つのスーツケースをタクシーのトランクに入れ、上野駅に向かった。タクシーを降りるとしとしとと雨が降り始めた。ケースの留め金は具合が悪く、十歩も歩くと開いてしまう。そろそろ夕闇が迫り腹も空いてきた。私は以前何度か行ったことのある鰻屋(伊豆栄)へ行き、御銚子一本とうな重を堪能した。外へ出るともうだいぶ暗くなっている。急いで京成電車に乗り成田へ行った。ところが空港について唖然とした。真っ暗で客もアテンダントの姿も見えない。私は焦って航空チケットを取り出してみた。そこに記されていた出発時間はなんと17時だった。私は7時とばかり思っていたのだ。今まで飛行機には何度も乗っているが、こんな失態を演じたのは初めてだった。私は意気消沈して空港近くのビジネスホテルへ行った。

 なぜこんな失態を演じたのか今でもよくわからない。睡眠薬を断って日時が経ち躁状態にいる私はなかなか寝つくことができなかった。そんなうつうつとした夢か覚醒かわからない時、ふと浮かんだのはいい写真と記事が上手くできても日本のメディアには売るまいと思ったのである。売るならニューヨークタイムズだと確信したのである。そう決めるとすべてが順調にいくような気がしてきて急に小腹が空いてきた。そこで、ホテルに併設するコンビニへ行きポテトチップをその場でむしゃむしゃ食い始めたのである。驚いたのは中年の店員で「あんた何やってるんだ」「見ればわかるだろ」「とんでもない奴だ。警察を呼ぶぞ」「どうぞ」

 やがてやって来た警察官に事情を話した。このホテルに泊まっていること、財布を忘れてきたこと等々。警察官はそれで納得したのかその場を離れた。私はホテルに戻ったが、再びコンビニには行かなかった。そして思った。なぜあの警察官は私がスリッパも履かず、裸足で歩いていることに気がつかなかったのだろうか、と。

 朝になり再び空港へ行った。ガラス窓からは、燦々と陽が降り注ぎ、空港内は暑かった。グアムで日焼けしていたせいもある。  

 ジャケットとシャツを脱ぎ裸になってロビーを闊歩した。するとすぐに飛んできた警備員が「あのお客様、裸では困ります。何か着てください」というので、ジャケットだけを着て前をはだけたままでいると、今度は警察官がやってきて空港警察署に連れていかれた。事情を話すと「乗り遅れはどうにもならない。とりあえず家に帰って下さい」

 私は仕方なく京成に乗った。しかし、二三駅も過ぎると未練がましく空港に戻った。先ほどの巡査がいった。「何だ、あんたまた戻って来たのか。仕方ないね」そういうと同僚らしき私服と何やら話していたと思ったら、「私たちが家まで送るから」そうして、警察車両に乗せられた。「パトが良かったんだけどな」というと刑事は鼻を鳴らしていった「贅沢を言いなさんな」