名医とは?

前出のブログ「キチガイ病棟」で私の鬱を問診する前にこちらの顔を一目見ただけで看破した医師がいた。私はあえて名前を出そう。長野にお住いの精神科医 横山先生である。20年ぐらい前のことで彼はまだ30代だったように記憶する。それまでは東大出の医者がその医院では幅を利かせていたが、彼は聖マリアンナ大学出身だった。いい医者に巡り合うことはなかなか難しい。特に精神科では心の交流も必要だと思われるからだ。彼がなぜそうしたのかわからないが、勤務する病院をよく変える。そのたびに私は追いかけた。確か二つ目の病院だっと思うが、中目黒にあるクリニックだった。そこでは先生が一時間に及ぶカウンセリングをしてくれた。色々と話すうちに、私の心は丸裸にされた。衝撃を受けたのは次の一言だった。「亀山さんはタフに見られがちだけど非常に繊細な心を持っていますね」私の精神はもう涙ぼろぼろだった。私と親しくつき合った男も女からも別れた妻でさえも、私の心の奥に鍵をかけてあるその一点を見透かされたことはない。一週刊誌記者として経産省(現)の役人を言葉を変えながら追及していったこともある。また別の手法として怒鳴りつけることもあった。その時、仲の良かった週刊現代のあるデスクは「あなただけは敵に回したくない」といった。皆、私がタフだと思い、その裏にある涙もろい一面は知らなかった。それを見事にいい当てられて落涙寸前になった。また彼がアメフト部にいたことを知って「アメリカンフットボールってタッチダウンを決めると足をバタバタさせるじゃないですか。私はサッカーをやっていましたが、あのゴールを決めた瞬間の歓喜は例えようがない。それに飢えているんです」鬱状態の私は彼にそういう言い方で薬を処方してもらっていた。またやや躁状態の私が真夏の炎天下に二時間走をやって、火ぶくれを起こしそれが膿になり自分で切開し、跡が傷になったことを話すと「傷は男の勲章ですから」と粋に答えてくれたこともある。ずいぶん後に刺青を左肩に入れたのも勲章が欲しかったのかもしれない。彼はその後、かなり大きな病院にお勤めになったが、別れは突然やって来た。どうやら故郷の長野で、精神科を営んでおられた父君が急逝されたようだった。私の医者探しの旅はまだ続いているが、横山先生ほどの名医に巡り合えるかどうか自信がない。