キチガイ病棟の一か月

今68歳だが47歳で鬱病を発症した。原因は複雑で、まず不眠からスタートする。慶応病院に通い睡眠薬をもらい始めたのは46歳ぐらいか。仕事は「週刊現代」という週刊誌の記者だった。週刊誌の記者は正社員ではない。全きフリーである。ある人を通じて名物編集長だった元木昌彦氏に会い、今までフリーでやって来た記事を見せた。元木氏は「ちょっと歳を食っているな」と言いつつ採用してくれた。その時36歳。そこには契約書も何もない。お互いの信頼関係だけである。自分でいうのも烏滸がましいけれど私は一時期エース記者となった。年収も破格の一千万近くなったこともある。週刊誌が百万部を越える勢いのあったころの話である。その後、バブルがはじけ、出版社自体の業績が悪化し、週刊誌の勢いも徐々に衰退していった。毎年きっちり計ったように15パーセントづつ年収は減っていった。

 四百万円も怪しくなって、妻と子供二人の生活が危ぶまれた。しかし、一度足を入れた以上、そう易々とまた完全なフリーに戻ることはなかなか難しい。私の睡眠障害は悪化していった。家庭にも問題が生じ鬱々とした日々が続いた。私は睡眠薬を常用しなければ全く眠れなくなった。その時、魔の悪いことに班替えがあった。週刊誌には政治、事件、芸能、風俗などの班がある。その班で私は芸能班に組み込まれた。これがケチのつき始めだった。これまでは事件の班で、班のデスクは中々優秀で、上手く行っていた。その彼が雑誌を移ってしまったのだ。芸能のデスクは全く無能で、編集者(社員)の中でも嫌われ、上の覚えもめでたくない。

 結果、ほとんど企画が通らないということになった。記者との会議でも彼への信頼は薄かった。企画が通らないということはフリーの記者の仕事もないということになる。そうなるとかなりヤバい事態に直面する。週刊誌記者の報酬は社員と違い週給制である。仕事がなければギャラは全く払われない。これはきつかった。この無能編集者のもとにいたのは6か月くらいか。私は仕事への情熱を失いつつあった。

 そんな折、また班替えがあり、比較的若い編集者がデスクになった。この男も記者仲間では評判が良くなかった。東大出身で出版社にいることにコンプレックスを抱いているようだった。私は彼に呼び出され、ホテルの喫茶室でコーヒーを飲んだ。班替えに際して記者をホテルに呼び出すのは異例なことである。彼は開口一番こういった。「亀山さん、あなたは記者の中でもエース級でしょう。雑誌を移って編集長になったあの人だってあなたとxさんがいなければ出世できなかった。ついては私にも力を貸してくれませんか」

 私は自分の耳が信じられなかった。あの人とは気が合ったからだ。気が合わない相手と仕事をすると頭痛がする。あの人は私が何をやりたいかと尋ねると「そりゃスクープでしょ」と言ってのけた。野球でいえばホームラン狙いだった。私はその意気に感じいって全力を注いだのである。ところが、若い編集者が後に言ったことは「バントでも塁に出なきゃならないんですよ」

 彼がいう事件物というのは、例えば、某教授の不倫だったり、新聞政治面の一官僚の

取るに足らない不正だったりした。当然こちらも気が乗らない。半ば手を抜いた。そうすると、彼はパワーハラスメントに及んだ。夕方五時に電話を寄こし、これから静岡まで行ってある人物の別荘まで行ってくれといった。「当人がいなくてもそのたたずまいを知りたいから」

 私の財布の中には三万円しかなかった。普通なら仮払いをもらっていくのだが、時間的余裕もない。結果は何とか日帰りができ、財布の中身で足りた。私は電話でその別荘の様子を伝えた。

 驚いたのはその記事が出た時だった。別荘については一行も出ていない。何のためにわざわざ静岡まで行ったのか。彼のいわばパワーハラスメントは、その後も事あるごとに増えていった。二時に来るように言われ、二時間待たされたこともある。そんなある日、この日は会議のある日だったが彼から電話が入った。「私とあなたが上手くく行っていないのは副編集長も知っています。今日からもう来ないでいいです」

 私の心境は何と表現したらいいのかわからない。ホッとしたのもあるし、これは大変なことになったとの思いもあった。いきなりの失業である。幸い妻は嫌々ながらも保険の外交員の仕事を私の懇願で(ギャラが減り始めていたので)やっており、明日からの米の飯に困ることはない。だが、妻の冷たい目が、私の解雇を聞いた時、より一層深くなったように感じた。

 それからだ。私の鬱が動き始めたのは。義母からは仮病ではないか、と言われたこともある。しかし、決定的なのは、妻が、私との結婚前に不倫をしていた相手と会っている証拠を手に入れた時だった。結婚して17年間、その間、何度相手に抱かれていたのだろう。それを考えると、いたたまれなくなり、終日布団の中から出ない日もあった。

 そんなある日、私がいつも行く精神科の医院に新しい医師が来ていた。(この先生についてはまた別のブログに書こうと思っている)そのy先生は私の顔を見るなり「あっ、鬱ですね。鬱の治療をしましょう」と言ってくれたのである。それまでも、これもボンクラの東大出の医師に診てもらっていたが、一向に良くならなかったのである。

 これが47歳の鬱のスタートだった。これもまた別のブログに書くが、鬱は躁鬱へと変異を遂げ、今に至っている。躁鬱病というのは一般的な言い方で、性格的には双極性障害という。およそ百人に一人の割合で罹る厄介な病だ。

 私は離婚をし、子供の親権を取られ(幸い妻の実家は裕福だった)、友人も避けるという三重苦の目に遭った。この中で一つだけでも維持できていれば鬱にはならなかったかもしれない。

 双極性というのは鬱と躁の状態が交互に来る。おととし、私は深刻な鬱に悩まされ、一年間、家を出るのはコンビニに弁当を買いに行くだけで、布団の中にいた。風呂にも一度も入らなかったから、もし私の部屋を訪れる人があったら、凄まじい臭気に襲われたことだろう。その鬱も去年に入って徐々に良くなり、躁の気配が濃くなった。双極性の特徴だと思うが、躁の時のほうが気分はいい。毎日風呂に入るようになった。これはツイッターを始めたことと無関係ではあるまい。毎日、多いときは5,6回ツイートした。政治、文学、映画などなど。フォロワーの数も4500近くなった。ところが、である。その幸せの気分を一変させたのはソフトバンクだった。Wi-Fi支払日が一日遅れただけで強制解約となった。食欲は落ち、今年に入って20キロ減った。これが今回の入院のきっかけである。住んでいる板橋区の医院に通っていたが、入院を勧められてそれに応じた。入院したのは系列の精神病院で今年の三月十一日の事であった。

 精神科の病棟といってイメージしたのはジャック・ニコルソンが好演した「カッコーの巣の上に」だ。精神病院を舞台にした映画は、ブラッド・ピットの「12モンキーズ」(分裂病閉鎖病棟が描かれている)もある。いずれにせよ、いやな感じだ。病棟は普通の病院と変わらないが、見てはいないけれど隔離部屋もあるし、看護師はみな屈強で、いざという時のことに備えているようだった。いざというのはどのような時かと言えば、例えば、精神分裂病や、統合失調症の患者が幻覚や幻聴、妄想などで狂暴になった時のことを指している。

 病棟に入ってまず行われたのが、危険な手荷物の管理だった。私は爪切りや先の丸くなった髭切用の小さなはさみ、カーゴパンツのベルト、タバコ、ライターが管理下に置かれた。その次にやったのが体重測定。この時、20キロ減っているのが分かったのである。看護師も「わずか2か月で20キロも体重が落ちたのはいまだ聞いたことがない」と驚いていた。医師も真に受けてはいないようだった。二か月の内、ひと月は500キロカロリーの老人弁当。後のひと月はサイゼリアのスープを一日一杯飲むだけの生活だった。何しろ物が食えない。無理に食おうとすると吐き気がした。

 pcr検査を行い、三日間は隔離部屋に。これは、コロナ対策のためである。食事はすべてメモに取ってあるが、あまり美味しいとは思われない。炊いた米の飯が食えないので、おかゆにしてもらった。一食当たり460円だと聞いたが、外ならばもっと美味いものが食える。三日が過ぎ隔離部屋から四人部屋に移された。病棟は普通の病院と変わらず三か所のデイルームもあった。デイルームではテレビがあり、新聞も朝日と読売を読むことができた。自販機も備えてあり、コーヒーやジュースなどを飲むことも可能だった。 

 私がここが普通の病棟と違うなというのを感じたのは、二人の男が意味もなく廊下を徘徊しているのを見かけた時だった。一人は30代、もう一人は40代に思えた。三十代の男は髪の毛が長く、頭のてっぺんから靴に至るまで黒ずくめだった。ゆっくりとした足どりは不気味で会った。もう一人は貸し出し用の寝巻のまま無目的に歩を進めていた。共通しているのは、どちらも眼に狂気をたたえていたことである。のちに聞いたところでは、40代の男はデイルームの重い椅子を振り上げたり、女の患者に飲み物をかけた前科もあるという。退院近くなってだいぶ精神疾患の見極めがつくようになり、その40代の男とも話すようになったが、話口調が酔っ払いのようにろれつが回らないうえ妄想もあるので、完全に彼を理解したとは言えない。前職は何をしていたのかと問うと「初音ミクのプロデュース」といったのが強く印象に残っている。私がデイルームで本(家では全く読めなかったが、入院したら可能かも)と思い持ってきた内田百閒の随筆を読んでいると「あら、本を読んでいるのね。ここで本を読む人は珍しいわ」と言ってきた人物がいた。

 見ると、長い白髪をひっつめにした老婆であった。着ているものがなかなか洒落ていて、杖を右手に持っている。私の左隣の席を占めたいようだったが、その歩き方が、小股で何か引っかかる様な具合だった。私の名前を聞き自分の名を名乗った。それからしばらく話していたが、時々長く目をつぶっているので眠っているのかと思った。のちに判明したことだが、彼女は何かを思い出そうとするとき夢の世界に入ってしまうらしい。本当に眠り込んでしまうこともあることは三日たつとわかった。顔色が悪く死人のようでもある。彼女はこちらからは何も聞いていないのに勝手に身の上話を始めた。

「私の父親は三菱重工業の役員だったの」から始まって、自分は某有名企業のセクレタリー(秘書)をしていたこと。数社を経て空調設備の会社に入ったらしい。「帰る前にはエアコンの掃除までしなくちゃならなかった」どうも話がおかしい。「私は京のお金を持っている」ケイというのがぴんと来なくて聞き返したら、「億の上よ。会社も持っていて発展させようと思っているわ」「何の会社?」「社員は遊んでお金を配る会社」これはダメだと思い、別の話題に振った。

 「なぜここに入ったんですか」「それは、先生に啖呵を切っちゃたから。てめえ、誰のおかげで大きくなったと思ってるんだってね」「それで先生は?」彼女は人差し指を突き出し「入院って」「ここは何度目なんですか」「三度目」私のように任意で入る人もいるが、親族の要請にもとずく保護入院。警察が介入すると措置入院となる。彼女は保護だという。異母兄弟の妹がいるそうだ。きっとその人物が入院させたのだろう。のちに判明したことだが、入院に際し、金を一銭も持っておらず生活保護の身だ。たぶん、妹が後見人を設定しているように思う。きっと生活保護費も自分では管理できないのだろう。私も生活保護を受けているからよく解るが、年金が複数月に入るその管理はなかなか難しい。奇数月に苦しい思いをした分、年金月には旨いものを食ったりしてしまう。彼女は80代半ばに見えたが実際は77歳だという。双極性障害に加え、認知症も進行しているので彼女を理解するのはかなりの努力が必要だ。

 この一か月で印象に残っている人物は何人かいるが、統合失調症の49歳の彼は極めつきだった。彼も保護入院であった。年老いた母親が入れたのである。その経緯はこうだ。彼がある日、二階から降りてくると玄関に一人の女が立っていた。その恰好が〇〇レンジャーのユニフォームだった。一月の四日のその日、幕張メッセで行われるコミケに行くという。居間に一度戻って帰ってみたら彼女はもういなかった。その代りに高級腕時計の箱の蓋が明けられたままになっており腕時計はなかった。「エルベの時計で30年ほど前に買ったときは30万円だったが、今では一億二千万になっている。その時計を売って養育費を払おうと思っていたのに。ベゼルが18金で、ベルトが24金なんだ」といかにも悔しそうである。その場にいた誰もが不思議そうな顔をしていたが、ある双極性のなかなかの美人が「コミケ幕張メッセでやらないよ。第一、一月四日にコミケは開かれていないよ」とスマホを片手に言った。私は力のかかるベルト部分に24金はおかしいなと思っていた。何より金が高騰しているからといっても、そこまでの値が付くはずがない。「じゃあ、それは俺の思い違いとか」というと、先の美人が「妄想だね」「えー、それはないでしょ。だって箱があるんだよ」私がダメを押した。「それも妄想なんだよ」

 彼は入院した時、相当に暴れたらしい。別棟の部屋に監禁された。ナースコールをひっきりなしに鳴らし、終いには、ナースコール自体外されてしまった。いつも何かをぼやいていて、「自分より後から入院したのに、俺より早く退院するなんて」というのが口癖だった。

 ある日、デイルームにいた時、若い男が入院してきた。背の高いがっちりした男がつき添っている。その姿にハッとした。両の手首にタオルがまかれており、ブルーの腰ひもをつき添った一人が握っている。二人は私服の刑事であった。私は刑務所こそ

ないが、留置所、拘置所を経験したこともあるので、すぐ容疑者だとわかった。彼は別棟のほうに移動していった。それから十分もしなかったろう。若い太った女が同様の姿で女の刑事と男の刑事とともに別棟の方向に去った。明らかな、措置入院である。前の男の共犯なのかもしれないが、のちに、暴れて取り押さえられただけで手錠をはめられるケースもあるという事から事の真偽は謎のままである。

 35歳の女のケースも特異だった。彼女は、妄想の中で、月への人類の移住計画があることに思い至った。「それでね、最近有名人が良く死ぬでしょ。彼らは実は死んでいなくて月への移住ができる人たちだった、と気がついたのね。それを知ってしまった私は命を狙われると思って、部屋にいた友人に話をして故郷に帰るように言った。ところが彼女が行かないので、殴っちゃった」それで措置入院となった。病名が変わっている。一過性急性性心疾患。

 私は一か月入院して四月の十一日に退院した。その間、この閉鎖された空間にいることを嘆く声を多く聞いたが、私は平気だった。それはこれを修業期間と思っていたからでもあるし、本当はやってはいけないのだがメルアドを交換した友人もできたからである。いずれにせよ、こんなことは一回で済ませたいし、そうでなければ、せっかくの修業が全く無駄になる。