オウム真理教の闇2

 この初取材依頼、何度かサティアンを訪れた。天井の梁を這う大きなネズミや、自らの腿を木の棒で叩く修行三昧の男、吊り下げられた洗濯物の数々。彼らが食べる、いわゆるオウム食を試食したこともある。

 取材で山梨県の九一色村のオウムの敷地入り口では、必ず車を警察官に制止され、身分を明かし取材であることを告げなければならなかった。それは最初の一回だけだった。警察が車のナンバーを控えていたので、次からはフリーパスだった。このように警察は出入りする車をすべてチェックしていたのである。このことは重要なことなので忘れないようにして欲しい。

 私たちは原宿にあった支部も何度か訪れた。そのたびに荒木広報部長と面会した。支部の地下には誰が弾くのか、グランドピアノがあった。

 平成7年の2月が過ぎ、三月も17日となった。

 渋谷の支部の中は騒然とした雰囲気だった。いつも冷静な口調の荒木が焦ったような調子で私に聞いた。「強制捜査はあるのでしょうか」メディアの間ではその噂で持ち切りだったのだ「うーん、あると思うよ」「それはいつですかね」「さて、わからないな。でも、これだけはいえる。そう遠くはないと思うよ」荒木はため息をついた。

 そうして、20日、オウム真理教によって地下鉄サリン事件が起こる。(事件の詳細については自ら調べてほしい)。当初、事件はオウムの仕業とは言われなかった。しかし、サリンを持っていることを確信していた私は、事件を知ったとき、なんて馬鹿なことをしでかしたんだ、という想いだった。頭には麻原彰晃の教祖然とした不気味な顔よりも荒木の少年のような顔が浮かんだ。

 そして、翌21日のサティアンへの強制捜査サリンが検出されるのを察知するためというのをを名目に捜査員はカナリアの籠をさげていた。私から見れば、見事な演出だった。この瞬間、テレビを見ていた誰もが、地下鉄サリン事件イコール=オウム真理教と確信したのである。ここで、心に銘記して欲しいのはこの事件は異例中の異例ある公安が主導したことである。

 公安の手法は手法は私が知る限りかなりいひどい。忍び込んで盗聴器を仕掛けるなん日常茶飯事。友人になってスパイすることもある。アメリカでいえCIAを想像してみればいい。映画ではよく登場するだろう。つまり、オウム真理教はこの手法をもって壊滅した。

 わたしの疑問はいくつかある。まず、地下鉄事件の前日、オウムの実行犯はサティアンを出発している。つまり、警察はそれをチェックしていたはずだ。尾行はしたか?その必要はなかったはずだ。なぜなら、幹線道路に設置してあるオービスシステムで時々刻々追跡は可能だから。そして、幹線道路から外れたところに車両を待機させ、尾行を開始すればいいのだ。だから、彼らが潜んでいたアパートは承知していたのである。途中、リーダーの林康男がサティアンを往復している。これは、裁判記録から知ったがサリンを取りに行ったのである。

 大事なのはここからだ。警察は強制捜査に踏み切るだけの証拠を固めていなかった。何か決定的な証拠が欲しかった。ところが19日、アパートに信者が集合した。彼らは何か仕出かすに違いない。彼らは持っていると思われるサリンを撒くのではないか、と公安が考えていたのは間違いない。公安は彼らを尾行したはずだ。もし撒けば強制捜査に踏み込む絶好の口実となる。公安の首脳の判断はこうだったと推測する。そうして、尾行に徹すること、職質もなし、の命令が下ったはずだ。もし職質の上、身体検査をすればサリンの入った袋が見つかったはずである。それを、警察は敢えて見逃した。大きな事件を起こし、オウムに世間の目が集中するために

 そうして、その当日、地下鉄サリン事件が起こり、多数の被害者が出た。歴史に、もし、は禁物だが、仮に警察官が彼らを職質していたら事件は起こらなかった。悲劇は避けられたのである。だが、強行捜査を行いたい公安、および警察は手段を択ばずという方針を固めたのだ。どぎつい言い方が許されるなら、彼らはあえて事件を起こさせたのである。被害は想定内の事だったのだろう、と思う。これが公安の手法であった。

 その翌日、強制捜査が行われたが、その容疑は、サリン事件による傷害や殺人ではなかった。責任者である麻原彰晃の身柄の確保が主眼だった。逮捕状の中身は、公正証書を作る税務所長仮谷氏の拉致疑惑というとるに足らないものだった。サティアン内でサリンを見つけるか、麻原に自白させるしかない。しかし、世論は我々の味方だ、警察首脳はほくそ笑んだに違いない。